「玉の輿に乗る」のルーツとは

朗読コラム

2020年10月17日に豊中芸術文化センターで、四季の森主催の「朗読発表会」を行いました。
コロナの心配もある中、「涙あり、笑いあり、感動あり」の46作品が発表され、久しぶりに朗読の楽しさを味わいました。皆さんの朗読に対する思いが溢れていて、延々6時間の
発表にも長さを感じさせない発表会で、発表を聞きに来てくださった方も加えてのべ70人ほどの盛況でした。四季の森の朗読教室は、2021年年明けからスタートしますので、朗読教室一覧も是非ご覧ください。

ところで、朗読の教材やコンテストの課題として、「源氏物語」を朗読された方もたくさんおられると思います。今回は、その源氏物語にも密接な関係のあるお話を致します。
京都山科区に勧修寺というお寺があります。正式にはカジュウジと呼びます。
この一帯の地名はカンシュウジと呼ばれるため、一般的にカンシュウジという寺の名前で
通っています。創建は900年で、開創の縁起が「今昔物語」に出てくるほどの古刹です。仕事がきっかけで、筑波常遍さんという御住職にお会いしたことがあります。
現在85歳で、枯れ木のような僧侶(推定体重40キロ)は縁側に座り、冷蔵庫から出してきたヨーグルトを私に勧めながら「玉の輿に乗る」という言葉のルーツを話してくれました。「玉の輿に乗る」という言葉は、この勧修寺創建にまつわるんだそうです。

平安時代、左大臣で歌人の藤原冬嗣(ふゆつぐ)の孫で、藤原高藤(たかふじ)という青年貴族がいました。
この高藤が16歳の時に、タカ狩りに出かけた山科で、突然の嵐にあって道に迷ってしまいます。人家を見つけ雨宿りに立ち寄ったのは、郡の長官「宮道弥益(みやじいやます)」の家でした。
高藤は、そこにいた14歳くらいのかわいい娘「列子(たまこ)」に一目ぼれします。
そこで一夜を過ごした高藤は、必ず迎えに来るからと、結婚の約束をして帰って行きます。
恋い焦がれつつも、身分の違いから、高藤は父の許しをもらえず6年の歳月が過ぎました。
その内に父が亡くなり、高藤は娘を迎えるために宮道家を訪ねます。
そこで見たのは、美しく成長した列子と、自分によく似た6歳くらいの女の子でした。
女の子は、6年前に一夜を共にした列子と高藤の子供だったのです。
列子を妻に迎えた高藤は出世して、内大臣になり、女の子の(胤子(たねこ))は宇多天皇の妃になります。胤子(たねこ)と宇多天皇の間に生まれたのが、醍醐天皇です。
今昔物語22巻・第7章にこの話は出てきます。
醍醐天皇が創建したのが勧修寺で、今も花の美しいお寺として栄えています。

これが「玉の輿に乗るのルーツは勧修寺」と言われる所以です。こじんまりとした美しいお庭には四季に応じて雅な花が歴史をよみがえらせます。

源氏物語の作者・紫式部はこの藤原高藤の子孫です。高藤が結婚の約束を守っていなければ醍醐天皇も紫式部もこの世に存在しなかったことになります。もちろん源氏物語も・・・

高橋征二