聴き手を考える

朗読コラム

朗読教室に通う受講生の中には、小学校時代に国語の教科書の音読が好きでしたとい方にたびたび出会います。

私もその一人なのですが、あの頃の国語の教科書の「音読」というのはどのようなものだったのでしょうか。

文科省のホームページを見ますと、

「音読⇒黙読の対語だから、声に出して読むことは広く『音読』である。また、正確・明晰・流暢(正しく・はっきり・すらすら)を目標とする。」

とあります。

小学生の場合はやはり、しっかり声を出して、間違いなく、はっきりと、すらすら読めれば、音読として花丸をもらえることでしょう。
そして音読が得意という生徒は、教室の友達の前でも堂々とこなすことができるのでしょう。

ところで友達の前で音読をした時、読んでいる生徒はどれだけ友達のことを意識したでしょうか。

もしその生徒が「みんなに聴こえているかな?」「友達は私の読みで内容が解ってくれたかな?」「この箇所で嬉しく、この箇所では悲しく感じてくれたかな?」等々思ったならば、それは音読から朗読に移行していることになるのではないでしょうか。

同じく文科省ホームページによる「朗読」の定義を見てみましょう。

「朗読⇒「朗読は正確・明晰・流暢に以下を加える。
ア、作品の価値を音声で表現すること。 
イ、作品の特性を音声で表現すること。
(読者の受け止めた作者の意図・作品の意味・場面の雰囲気・登場人物の性格や心情を)」

とあります。

さらに『例会新国語辞典』や『日本大百科全書』では、音読と朗読との大きな違いとして、朗読には

「人に聞かせるために」や「他人に文章内容を伝えるために」

のように「人に」「他人に」という言葉が入っています。

「朗読」には読み手以外に聴き手が必要だということです。

朗読では、同じ作品を同じ読み手が読んでも聴き手が変われば、その読みは変わる━━━というのが、私の朗読活動の中で得た持論です。

例えば「かぐや姫」のお話を、小学校で朗読するのと高齢者施設で朗読するのとでは読み方は違うのです。

私の経験では、小さい子どもには声の高さは高めに、高齢者には低めに。
読むスピードはどちらも少しゆっくりと、といったところでしょうか。

高齢になるほど高い音は聞き取り辛く、また耳に入った音を脳で咀嚼するタイムラグがしだいにできてくるため、ゆっくりと読むことが必要です。

そして児童文学として書かれた「かぐや姫」の本であっても、高齢者への読み方は子どもに言い聞かせるようにではなく、年齢を経た人への尊敬の気持ちを持った読みが必要だと思うのです。

子どもへの朗読では、年齢によってさらに読み方が変わります。
未就学児に朗読をする場合は、感情を入れ過ぎて読むと、話の内容より読み手に気が行ってしまう恐れがあるそうです。

確かに私自身の経験でも、孫たちに良かれと情感たっぷりに絵本を読んであげた時、絵本よりも私の顔ばかりを見ていました。

上記は聴き手が高齢者や子どもの場合を例に挙げましたが、一般的に朗読を学んでいる方々の発表時の聴き手は、やはり受講生同士が多いものです。

私はこの場合が最も難しい気がします。
目の前の聴き手すべてが審査員に感じるかもしれません。
このような時でも基本は一つ「聴き手ファーストの読みをしよう」と思うことです。

さて最近の朗読の傾向では、ひと昔前よりも芝居っぽい読み方が増えてきたように感じます。
私が若い頃にラジオで聴いた朗読は、淡々とさほど感情導入されない読みだったと記憶しています。
今は聴き手がラジオ世代からテレビなど画像世代へと代わりました。
音声だけでなくBGMや画像など、内容に対する様々な情報を提供しなければ、聴き手は想像がし辛くなってきたのでしょう。

読みにも情報提供のために、芝居っぽさが求められてきたのだと思います。

ここにも「聴き手によって朗読が変わる」ということができます。

絵画の巨匠ピカソの言葉に「絵画は見る人によって芸術になる」という文言があります。

私はそれをもじって「朗読は聴く人によって芸術になる」と思うのです。

コロナ禍になり一年以上が経ちます。
人前で朗読をする機会がすっかり減りました。
聴き手を考え、感じることのできる「朗読」をする機会が一日も早く来ますようにと、切に祈らざるを得ません。

2021年5月20日
葛村聡子教室 講師 葛村聡子