ある雑誌のコラムで、日本へホームステイに来たアメリカ人の話が載っていた。
「日本語は不思議だ」という第一印象の話である。
このアメリカ人が最初に驚いたのは、「行って来ます・・・」
主語も目的語も入っていなくて、果たして誰がどこへ行くのだろうか?
「Go Come」なんて、外国人には何のことか分からない!と書いていた。
プロの翻訳家に聞いてみると、日本語の「行く」「来る」しか理解できない程度の語学力ならそういうことがあるかもしれない。ただ「行ってきます」を翻訳しても「Go Come」とはならず、あえて翻訳すれば、「See You Again」かなあ?ということだった。
それはともかく、日本に初めて来た外国人が、日本の表現に戸惑うことはありそうだ。
例えば、
1.ランドセルを背負った子供 → 学校
2.スーツを着たお父さん → 会社
3.普段着で買い物かごを持ったお母さん → スーパー
これらの「行ってきます」は、日本人ならどこへ行くのかを理解できるが、初めて日本に来た外国人は面食らうとも書いていた。
「見たら分かるだろう」「言わんでも分かるだろう」と言うのが日本の感覚。
「めし」「風呂」「お茶」は、日本男性を象徴する一言と言われるが、外国ではあり得ない!
「あれ取って・・」「あれ食べようか・・」で、自分の言っているものが出て来る!
演出家の鴨下信一さんは、「日本の言葉文化では、自分が責任を持って正確に伝えるということより、聞き手が想像力を働かせて正確に聞きとることを是とするようなところがある」と言っている。
普段の会話を考えても、日本独特のやり取りがあるのも面白い。
「曖昧な返事」
1.「何月何日にゴルフ行きませんか」「うーんちょっと考えとくわ」 → 電話がここで終わると困る!
2.「この仕事頼める」「多分大丈夫だと思う」 → 頼めるの?頼めないの?
3.「あの人は先生ですか」「先生だと思うけど違うかなあ」 → 分からないとはっきり言え!
「曖昧な会話」
1.「最近どう」「うん、まあまあ」 → 何がどう?で何がまあまあ?
2.「あの映画見た?」 → 「ああ、見たかなあ」
「外国人に理解できない、謙遜」
1.「内の愚妻です」「内の宿六です」(今や死語でしょうか?)
2.「私の愚息です」などは、本当にそう思っているのではなく反対表現をしているので、言われた方は怒りもしない。(日本人は家族を褒めるのがどうも苦手のようです!ちなみに、愚妻・宿六愚息は和英辞典で出てこなかった)
朗読は、もしかすると日本語の表現と密接につながる文化かもしれません。
つまり、朗読素材の内容と朗読者の表現から、聞き手は多くのことを推測し、想像力を膨らませて理解しようとします。
そして、内容の理解だけでなく、余韻を楽しみ、人物を思い描き、景色を浮かべています・・・
朗読者は、微妙な「間」や「緩急」「強弱」「音色」「切り返し」などを工夫して、聞き手に作品を手渡していることになります。
「あなたの朗読作品」が、いろいろな工夫の結果として、心のこもった手渡し方になると素晴らしいと思います。あなたの持っている原石を磨いて、どんどん光らせていきましょう。
高橋征二