余韻を楽しむ

朗読コラム

昨年末の紅白歌合戦は久しぶりに紅組が大差で勝利を収めました。今回は何年かぶりにテレビの前でゆっくりと音楽に聴き入ることができました。ただ、私が子供の頃と比べて歌謡曲が大きく変わったなと改めて感じる大晦日でもありました。「折れた煙草の吸殻で~、あなたの~嘘がわかるのよ~」とその昔、中条きよしさんが歌っていましたが、子供心に何とも切ない思いがこみ上げてきたのを今も覚えています。

これを今風に置き換えると、「あなたの消した煙草の吸殻・・・その折れ方を見れば、私にはわかるのよ・・・何をイライラしているの?あなたの嘘に気付いているわ」といったところでしょうか?私の作詞の才能の無さはさておき、「あなたの嘘」に行き着くまでにどれだけの言葉が必要なのでしょう。情景や動作があまりにも克明に描かれていて、そこまで必要だろうかと思うほど過剰な説明が入っています。聴き手に想像させる余裕が感じられない曲が増えていると感じるのは私だけでしょうか。

小説にも同じく過剰な説明が多いと感じることが多々あります。古典と比較すると一目瞭然で、源氏物語ではこの台詞が誰のものなのか主語さえわからなくなるほど省かれていて、私などは途中で頭がこんがらがってしまいます。

ちょっと極端な例を挙げましたが、私は歌謡曲も朗読も余韻を楽しみたいと思っています。勿論好みもあるでしょうが、情景が思い描かれて心に染み入る瞬間が何とも心地良いからです。

歌謡曲一曲あたりの時間が大体決まっているように、朗読にも大抵の場合時間に制約があります。全部読めれば良いのですが、やむなくカットする部分が出てきます。ではどこをカットするのか、皆さんも悩んだご経験があるのではないでしょうか。

例えば
『彼女ははっと驚いて息をのみ、そしてゆっくりとした口調で「あなただったのね」と言った。』

という文章を

『彼女ははっと驚いて、《間をとる》「あなただったのね」と言った。』

と縮めたとします。

適切な間と緩急、声の高低を駆使することで恐怖や悲しみ、喜びや驚き等の彼女の感情を表現することができます。

こういうところも朗読の面白みのひとつだと思います。

作品をカットせざるを得ないとき、あらすじだけに囚われると心情や情景を伝えるチャンスを失うことがあります。単に文章を省く作業と捉えるのではなく、行間や余韻を楽しむことを心がけると、これまでとは違った朗読への理解が深まるのかもしれません。

朗読アカデミー 四季の森 久保和子朗読教室

講師 久保和子